航時機

昔のことを思い出しつつ気の向くままに書いてます。

たなばた祭りの思い出

 

こんばんは。

とても久しぶりに書いてみようと思い立って立ち上げてみた次第なのですが

 

今日だけ何故かいきなりPV数が上がってて何事かと思いました。

嬉しいんだけど、航時機にぱっとアクセスすると記事がいくつか出てくるので

そんなに一人であげられるものでもないしいったい何があったのかびっくりしてます。

 

晒されたりしたらもっとすごいことになるからね()

何はともあれ読んでくれてありがとうございました。

 

 

 

旧七夕が近づいてきたということで

昔の思い出がふわっと蘇ってきたので書き留めたいと思ったのが

今回筆をとった理由でございます。

 

七夕といえば7月7日ですけど、旧七夕は8月上旬らしく

うちの地元では8月6日くらいからたなばた祭りがございます。

 

ずっといわきたなばた祭りだけを見て生きてきたので

数年前までは結構大規模なお祭りだなぁと思っていたんですけど

高校生くらいの時にたなばた祭りの期間に仙台に行く予定があって

初めて見た時、あまりの規模の大きさに自分の地元のちっぽけさが

ものすごーく身に染みました。

 

なんというか、井の中の蛙だったことを見せつけられたというか。

 

私はあのぐらいの規模でいいんですけどね。

今はいろんなところからいろんなマニーが入ったり

色んな人たちが流れてきているので結構人も多くなってるかもしれないけど。

 

仙台の七夕がすごーいって話は

タイトルに反するのでこの辺にしておきますかね。

なにせアーケードに歩く隙間がなくて飾りが見えなかったから

お祭り自体に関して全然思い出はない(´・ω・`)

 

 

さていわきの話に戻りましょうか。

 

うちは昔いわき駅付近でお店をやってたので

たなばたの時はいつもお店のお手伝いをしておりました。

 

おばあちゃんにお客さんにお水だしといで~と言われて

遠慮がちにテーブルに置いてきたものです。

 

昔は結構人見知りだったので、すごく恥ずかしかったな。

お店のお手伝いって言ってもこのくらいのちょっとしたこと。

そうすると、おじいちゃんとおばあちゃんが遊んでおいでって

お小遣いをくれるんですよ。

 

両親もお店を手伝っているので弟と二人で街に繰り出して

的屋見て回って、色々買ってきて…

小学生の頃は学区的に友達と一緒に見て回れなかったから

ずっと弟と行ってたなぁ。別行動とかもしてたけど。

 

あの辺は庭みたいなものだし、当時はそんな変な人もいなかったし

小学生でも街にほっぽりだせたから、いい時代だったなぁと思います。

 

中学生になった頃にはお店をたたんでしまったので

手伝いはできず。この頃にはもう少し色々仕事もできたろうになぁ。

 

でも、友だちと浴衣着て見て回ったりしたもので。

その頃の一緒にいた人たちと今でも付き合いがあったりするから

なんだか感慨深い。

 

なんかそこまで思い出ってほど思い出でもなかったなぁ。

今見たら、やっぱり少しちっぽけに見えるのだろうか。

 

小さい頃は、小さいから、飾りもおっきく見えて、すごく楽しいんだよね。

DQNとかもやっちゃうやつだけど、

飾りをわーって触りながら潜り抜けたりするのが、アトラクション感があってね。

 

夕方くらいになると混んでくるんだけど

お昼だと穴場は結構空いてたりするから自由に見て回れてね。

最終日は結構すぐに的屋が片付け始めてしまうので

あんまりゆっくり見られないのがすごく残念なのです。

 

気になって仙台の方はどうかなと調べてみたら

さすが大規模な方は違いますね。結構遅くまでやっているらしい

 

いわきももうちょっと、ゆったりやってくれたらなー。

果たして今年はいけるのだろうか。

働き始めたら、旧七夕の時期に帰ったりできるのだろうか。

 

働き始められるかも微妙な感じがするんですけどね!!!!!!!!!!!!

 

わ~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!

 

止めましょう、やめましょう。

 

 

こんなどうでもいいことしか書いてないのに結構時間がたってた。

工藤静香のアルバムが結構進んでいるのですもの。

 

早く航時機が生まれてくれればいいんだけどな。

タイムマシンと違って過去にしか行けないんだけれどね

私は未来なんて興味がないからそれで十分です。

 

でも、科学的に考えたら過去より未来に行く方が簡単だよね。

うーん、なんでもいいです、科学者の皆様がんばってください。

 

 

とまぁこんなところで、しばらくぶりのブログをシメようかなぁと思います

 

もっとなんか書くことでもあればいいんだけど

今は別にしっかりと書きたいなぁということも特になくて

一応小論文の練習にでもしようと思って書き始めたはずなんだけど

全然練習にもならないしすごい幼稚だしわ~~~~~~~~~~~~~~

 

夏の初めの思い出でした。

 

 

反省ってなんですか

 

 

明日がとても憂鬱です。

本を読み切らなければならないという

自らが勝手に作り上げた強迫観念に襲われて。

また、別にやらなくてもいい課題をやらなくてはいけないという

同じ、強迫観念に駆られて。

 

私に限らずまじめさから鬱気質になってしまう人は

「~なければならない」というものを

作りすぎてしまう傾向があるんだと思います。

 

私の場合はそういうものを作り出したうえで放棄することで得られる「悪い」感じに

酔いしれてしまうという

なんともバカらしい性癖があるからだと自覚しているんですが

 

やっぱり本当に追い詰められたときはもうそれはそれは

気がくるってしまうものなので

早くこういう性分はやめにしたいなぁ、と思うこの頃です。

 

というわけで1日もほとんど終わりかけたつい先ほどから

読まなければならない本を読んでいたのですが

自分が感情的なこともあり大号泣してしまいまして。

 

殺人鬼の書いた本を読んで泣くことがあるものかと

思うかもしれませんけど、

普通の人間だからこそこうやって泣いてしまうのですよね。

 

 

 

そうそう、先週授業で絶歌を取り扱ったわけですが

「文章を読むと吐き気がする」みたいなことを言う人が本当にいるらしく。

わたしがとってもビックリしたのが

 

国文学科の授業って大抵生徒が朗読するもんだと思うんだけど

一人の男子生徒が「読みたくないです」って断ったの。

酒鬼薔薇の本だからなのか、わからないけど。

ちゃんと目で追ってなかっただけなんじゃないのか…?

 

先生もみんなが読みたくないような本を扱っているからと

「そうですか」って次の人を名指ししたわけだけど

 

だったらそうだと、ちゃんと言ったらいいじゃないか

「私は殺人鬼の本など目を通したくありません」ってね。

子どもらしい主張の仕方で興ざめでありましたという話。

 

殺人鬼をもうけさせるのは嫌だという感情が先行して

内容には目を向けず「吐き気がする」という人たちは

なんというか…その…とりあえず悪い方法でもなんでもいいから

目を通したらいいと思います…(実際吐き気がする部分はあるけど)。

 

私は本をそんなに読まないから参考にならないかもしれないけど

少なくとも私より多くの本を読んでる国文の子たちが

文章上手って言うんだからそれなりのレベルだと思う…

 

し、やっぱり書かれていることも考えさせられる。

どうして殺人鬼が生まれたかとか、

そういうのは興味がある人だけが感じ取ればいいと思うけど、

マスコミの対応とか、家族への想いとか、

彼がその後どのような人達と触れ合ってきたとか…

案外勉強になることはたくさんあるんだけどな。

 

私自身先入観がとても強いので、

自分が今まで殺人犯に向けてきたまなざしを

見つめ直さざるを得ないなって感じております。

 

 

でもまぁ世に出てる意見と同じように

殺したことに対する「悪びれ」はあんまり感じられないな、今のところ

 

ん~~~~わからないんだよね。

やっぱり彼にしてみれば大切な存在以外は全部

虫とか動物とかと同じなんだろうね、命の尊さは

 

むしろそういう人間外のものに対しての方が、

生というものを感じてるような気がする

結局のところ奇をてらうことで自分を守る癖は抜けてないのかなって

 

そういう悩みまでは彼はたどり着けなかったんだろうなぁと

 

そんなひと、人殺してないだけでたくさんいるんだろうけどね

なんとも虚しさを感じております。

 

またこの件に関して心無い意見を突きつけられるのかと思うと

明日がとても憂鬱なのであります。

 

反省が感じられないという意見がたくさん出てて、

私も「悪びれ」のところでそれは感じてるんだけど、

そもそも「反省」ってなんなんだろうか?

 

反省の定義を教えてほしい。

こんなに悪いことを、私は反省しきれるとは思わないんだよね。

 

例えば宿題を持ってくるのを忘れる、やってくるのを忘れる、

こういう小さいことは反省できると思うけど

人を殺して楽しんだことなんて反省できないでしょ。無理でしょ

 

反省と償いもまた別だし。

 

難しいよ、私には理解できない。

みんな理解して「反省」という言葉を使っているんだろうか?

 

できないことをできる、ってやらせようとしたり

できてない、する気もないのに、したって見せかけたり

そんなものじゃないの、反省って。

錬金術と一緒じゃないか、反省って。

 

こんなこと言うのは性に合わないし、

もっとわたしは心の温かな人間(笑)なんですけど、

亡くなってしまった命に固執して

関係もない人たちも交じって、「反省」を強要し続けるのは

あまりに酷なのではないかなぁと思うんです。

 

この件に限らず。

 

話がいったきたしてきたからこの辺にしておきましょうと

文字数を見たら2000字くらいになってて

たった200文字志望動機を書くのがあれほど苦しいのに

頭を整理するために書き綴った文字はこんなに溢れてしまうものかと

ため息が漏れてしまいましたとさ。

 

おしまい。

 

小学5年生のあの日のこと~道徳の授業について

 

ここ数日、人様の善悪概念というものに

見下されるような人間ながら、落胆する毎日でございます。

 

これはいい!これはダメ!

 

感覚的に、民俗的に体に染みついているものなので

こういうものを大人になって何度も見返すというようなことは

よほど物好きな人でもない限りないかと思います。

 

私は自分自身の善悪判断基準とか道徳的な概念とかが

欠如していることが多々あると自覚しているので

考え直すために、倫理学の勉強をしていたわけですが

 

正直、わたしほどひどくはなくても、

そのような思想がしっかりと確立されているような人というのはなかなかいません。

 

だれもが自分の道徳的な考え方を見直す必要があると私は考えています。

そうすればきっと、もっと生きやすい社会になると思う。

人はすべてにおいて、分かり合うことは不可能だからこそ、

部分的に理解が深められるよう、自分自身を知っておく必要があるのです。

 

 

さて本題ですが。

私は道徳の授業はあるべきだと考える一人です。

もちろん、教師の思い上がった善悪判断基準を押し付けるために

使われる危険性があるというのは重々承知の上です。

 

道徳の授業というのは、生徒も先生も一緒になって

もう一度、善悪について考えるよい機会であると感じるからです。

 

私は道徳の授業は格別好きだとか嫌いだとかは感じませんでしたが

道徳の教科書には色々なお話が書いてあるので、それを読むのが好きで

先生の話もそっちのけに文章を読んでいることが多かったです。

 

今もサスペンスが好きなので、昔から悲しい話とか考えさせられる話とか

好きだったのかもしれない。

 

そんな、マイペースな生徒もいるからなのでしょうか、

あるとき担任の先生が「ロールプレイをしよう」と言い始めました。

 

同じクラスだった人は覚えてるかもしれないけど、

私のクラスではちょっとしたいじめがありました。

 

詳細には書きたくはないんですが、

あまりクラスになじめない子がいまして。

 

私は鼻がきくから、どうしてもその子の生活臭がダメだったんです。

他の子たちも同様に、そういう理由で避けていました。

親御さんが日本人じゃないという話を聞き、文化の違い的なものかなぁと

子どもながらに感じていました。

 

当然その子は学校に来づらくなり、担任の先生も頭を抱える。

そこで彼は、いじめの「ロールプレイ」を始めました。

 

前の席に座っていた男の子に「ちょっといじめられる役をやって」と言い

おふざけ交じりに罵倒しはじめました。

ほんとに、どうでもいいようなことで、あまり内容は覚えてないんですが

泣いちゃったんですよ、その彼が。

 

私はすごいショックを受けました。

ロールプレイでも泣いちゃうんだって。

そのぐらいつらいことなんだなぁって。

 

今でもこのショックを覚えているぐらいだから、

先生のロールプレイ作戦は成功なんだなぁと思います。

 

その前には、先生が小学生の時に体験した

義眼の子へのいじめの話をアツくした時もありました。

詳しくは覚えてないけど、すごいアツかった。

その時の後悔とかをぶつけてくれた気がします。

 

ただ、当時はちょっと擦れてるものだから

あんまり響かなかったんだよね。

もちろん、先生がしてしまった後悔とか悲しい出来事だなぁとか

感じはしたんだけれど

「確かにその子は可哀想だけど、うちのクラスの問題とはちがう」

というような線引きをしていたと記憶しています。

 

でも、ロールプレイをすることで、

いじめがどうしてダメなのか?どう傷つくのか?

そういう、わかるけど、本質的にわかってはいないことを

身に染みて感じることができた。

 

これがいい、あれがわるい、そんなこと、わかってるんですよ。

子どもだって犯罪者だって、なんだって。

(たまにわかってない人もいますが…それこそ道徳の授業が必要)

その、「わかる」を、本当の「わかる」にすることが

道徳の授業の意義なのかなぁと思います。

 

あれがいいと思っていたことは、本当はそうでもなかった、ということに

気づくことだってあると思います。

いろんな考え方があっていいんですよ。それを交換しあう場なんです。

そういう、自分と違う考えの人とどう向き合っていくかも考えていかなきゃいけない。

これは、小さければ小さいほど意味があると思います。

 

私はそれなりに歳がいってから理解できるようになってきたので、

それまでの自分がすごくみじめになりましたので…(笑)

 

 

おちゃらけた先生で、給食の時間隣の教室にいき、

女の先生とコミュニケーションをはかるために

残った給食を持ってきて男子生徒によそうことで結婚にこぎつけた先生。

お元気でしょうか。

 

なんだかんだ、私は彼に学んだところがあるのだなぁと今になって感じます。

もう連絡先が分からないのですが、知ってる人がいたら一緒に会いに行きたいですね。

 

 

 

 

さて戻りますと、同じ内容を扱うとしても、

やり方次第で子供たちに考えさせることができるのが道徳の授業です。

頭だけ使わせても、なかなか入り込めないものです。

感受性豊かな子どものうちに、色々な方法で、様々な問題について

考えてもらいたいなぁと、私は常々感じております。

 

中学までは組み込まれている道徳の授業も

高校になればなくなってしまう。

高校生にだっていじめとか、小さいことをする人もいるんですよ。

道徳という授業の形でないとしても、

わたしたちは、もっと、身近な善悪とか倫理観について

語り合う場が必要なのではないかと思っております。

 

他人の意見を罵倒するためにあるわけじゃないです。

そういう考えの人もいる、その考えの人たちはどうしてそう考えるのか

それらを知ることに意味があるんです。

 

 

 

私はここ最近みる例の批判に関しまして、

思考停止して「ダメ」と言っている人が多いように思えます。

率直に言えば、その「ダメ」がなぜ「ダメ」なのか言及されていないから

読む価値もない、そういうことです。

 

せっかく論じるなら、「なぜそう思うか?」を明記してくれたらいいのになぁと思います。

 

そのためには事象についてしっかりと把握する必要がある

意見を述べるというのは意外に難しいよねというタイトルには少し反した形で

この記事を終えようかなぁと思います。

 

だからこそ、道徳の授業で、考える力を養ってほしい。

道徳に関するディベートとか、もっとやるべきだよ。

例えば電車で物を食べていいか、とかそんな小さなことでも

人によって違いがみられる。

そういう小さな違いの発見を、もっと子供たちにしてほしい、そう願っています。

 

今、わたしには力がありませんが、

いつか、そういう、子供たち同士で「考える」ことができる物語なんか

書くことができたらいいなぁと思っております。