航時機

昔のことを思い出しつつ気の向くままに書いてます。

酒鬼薔薇の手記販売を自粛する必要性があるか

 

ついに、私の時代がやってきた。

80~90年代を懐古し、生きている私にとって

この時代のものがタイムラインに溢れかえることは

それがどんな内容であれ、なんとも感慨深いことです。

 

 

神戸連続児童殺傷事件は、当時の日本の世の中、文化に

絶大なる影響を与えた事件です。

阪神淡路大震災があり、地下鉄サリン事件があり、

国民の心が乱れに乱れていたあの頃。

それらがさらに深められてしまった事件なのではないかと、

わたし自身感じています。

 

ラノベの授業では、この背景があって、エヴァができている

なんていうようにも言っちゃっているくらいで、実際そうだと思うんです。

人の心の闇、というか、そういうものが明るみになって

若者の怖さ、脆さに目がつけられ始めたきっかけであると思っています。

 

ラノベって陰のある作品多いもんね。

格別知らなくたって、そういうのが多いのはわかる。

余談ですが、作り物でそういうのをたしなむよりも

こうした事件を辛辣に受け止める方が、私は好きであったりします。

 

当時意識があるかないか、だった私にとって

この事件で人々がどのような恐怖を味わったかは知り得ません。

今でこそ、第三者として受け止められるものの、

それまであったものが音を立てて壊れていくような社会の中だとしたら

感じるものも変わっていたのかなとは思います。

 

だからこそ、当時生きていた人たち、酒鬼薔薇世代の方たちが

過激に彼の手記に対して批判する気持ちはわからないでもありません。

 

結論から言うと、私は彼の手記販売を自粛する必要性はないと考えています。

個人的な理由と社会的に見た理由と、合わせて書いていこうと思います。

 

まず、個人的理由。これはかなり強烈というか、

思ったままに書いているので、不快な方がいらっしゃるかと思います。

ただ、それぐらい、この件に関して思い入れがあるということで

言葉を選ばずにつづろうと思います。

 

まず、彼が人間として魅力を持っているからです。

中学生にして猟奇的連続殺人犯、という点は抜きに

警察・マスコミに対する手紙やその後の発言、イラストなど

様々な点にカリスマ性を見出してしまいます、私は。

 

漫画や本から真似たとはいえ、中学生にしてあの文章を書きあげる能力、

また、犯人像を作りこむなどの創造性豊かな点は

他の殺人犯にはない才能ではないかと考えています。

それらを嗜む自由が、私達にはあるのではないか、というのが1つ。

 

また、猟奇的殺人犯でありながら、「普通の中学生」の顔を

あわせもっていたという事実。

Wikiの受け売りぐらいしか、彼のことを知らないわたしですが、

(そんな知識をわざわざブログに載せるのは恥ずかしいので気になった方は

神戸連続児童殺傷事件 - Wikipediaをお読みになって下さいな。)

 

少なくとも、先日捕まった宮城出身の名大生よりは

人間の心がそなわってるんじゃないかなぁと。

「どこにでもいる中学生」が「猟奇的殺人犯」になる可能性。

それらについて、私たちは知っておくべきではないか、というのが2つ目。

 

3つ目は、彼が冤罪である可能性が拭えないということ。

確たる証拠がないから、個人的理由になってしまいますが。

 

わたしがしてるわけじゃないですが、某友人から聞く限り

死んだ人を、中学生が、糸鋸で、

そんな風にするのって、かなりの労力がいることなんですよ。

というか、ほとんど無謀に近い。

 

他にも、数キロある頭を、自分よりかなり高い校門にどうのせたとか、

そういう話もありますし。

本当に彼がやったのか定かではないんですね。

捕まったのも、警察の揺さぶりでだし。

 

自供内容は細かく、本当にやっているようには思えます。

が、よくよく考察すると、本当に本当か、わからなくなってくる。

 

私個人の見解として、第2の事件までは、確かに酒鬼薔薇がやったと思う。

でも、最後の事件は、違うんじゃないかなって。

 

今まで人を傷つけてきた彼は、その事件の報道を見て、

自分がやったとの錯覚をし、犯行声明を出した。

そんな気がしてならないんです。

 

「本当に本当」だったのか知りたい。

だからこそ、彼の手記は世に出回るべきだ、そう思っています。

 

 

 

さて、社会的に見た理由ですが、まず、少年法の話から、ちらっと。

 

日本には、幸か不幸か少年法という法律がございまして。

未成年は、どんなに残酷な犯罪を起こしても

名前が公表されず、彼らは社会に戻されてしまいます。

 

同じ未成年猟奇的殺人として名高い女子高生コンクリート詰め殺人事件。

数ある猟奇的殺人を見てきている私ですが、これだけは本当に許せない。

彼らがのうのうと世にはびこっている。

同じように、酒鬼薔薇を許せない人たちはたくさんいる、のはわかります。

 

しかし。

 

彼らは「更正の余地がある」として、世に戻されているんです。

実際に更正しているかどうかは、わかりません。

言葉で、文字であらわすことなど、本心なくともできること。

 

法に、社会に戻ることを期待されいるんです。

 

当時の風潮が分からないので何とも言えませんが、

きっと、少年法についても議論されているはず。

 

これだけ猟奇的な殺人が起こっているのだから、

もしそれに疑問を感じたり、罪の重さと更正の余地と天秤にかけて

どうしても更正の余地が軽いようだったら適用されないとか

そういう風に法を改正する考えとかでてきてもよかったじゃないですか。

 

しかし、それらはなされなかったわけ。

 

それを今になって、法に期待されて出所した彼を

ないがしろにするような発言をしている大人たちが、私は本当に理解できない。

だったら、それを機会に少年法をもっと深くまで考えるべきだった。

 

恐怖とか、穢れだとかそういうものに囚われて放っておきながら、

彼が動き出した瞬間に叩きのめすような態度。

これは明らかに間違っているのではないかと、私は感じます。

 

また、遺族側の発言にも疑問を感じます。

 

殺された少女の遺族は

文字だけの謝罪であり、遺族に対して悪いことをしたという気持ちがない」

J-CASTニュースより)

と言っているけれども、じゃあ、どんな反省の表し方があるの?

 

更正とか反省って、他人はもちろん、

自分でも明確にわからないことではないかと思います。

 

例えば宿題を忘れたとか、そんな些細なことだって、

「反省」を見るのは難しいです。

本人はすごく反省していたとしても、もしまた何かのミスで

宿題を忘れてしまったら、「反省していない」とされてしまう。

 

 

大切な大切な娘の命。

個人的な興味・好奇心の対象とされ、

絶たれてしまったことは、どんな謝罪があろうと許せないと思います。

 

極刑が下ったとしても許されることでしょう。

 

このような重大な事件は、宿題なんかとは比べ物にならないほど

反省なんて見えないものだと思うのです。

 

今回は、印税が酒鬼薔薇本人に入るということもあり、

反省の色が見えない、と言っているのだとは思いますが、

出所後初めて謝罪の手紙が送られてきた際にも

同じような意見を述べています。

 

もはや、何をしようとも、(認められないのは当たり前だが)

彼らが酒鬼薔薇の反省を認めることはないのです。

 

それに便乗して、第三者である大衆が

本を自粛すべきだなど、いう権利があるのだろうか?

 

酒鬼薔薇はあくまで、「法に期待されて社会に復帰した」存在。

日本に住んでいる以上、法に従って生きているので

それは承知しているのが当たり前です。

 

この前提がありながら、自粛だ、不快だなどと

大衆がしゃしゃり出るのは、言語道断なのです。

 

というのが社会的に見た理由です。

 

尾木ママが「今後事件を起こさないためにも研究したいが、自粛して」

のような趣旨の発言をされていました。

 

教育者の方々はぜひ、彼の手記を研究をしていただきたい。

二度と起こしてはいけないんです。こういう事件は。

だからこそわたしたちはまっすぐに、

社会に出た彼を受け止めなければならない。

 

当時の恐怖を思い出すから不快、

猟奇的殺人を犯しておきながら印税が貰えるのは不快。

 

このような表面的な議論で終わらせるような問題ではございません。

 

彼は、「法に生かされてしまった」人間でもあります。

これは私の想像ですが、どうしてこんな罪を犯して生きているのか

考えることもあるのではないかと思います。

 

そういう葛藤であるとか、もちろん当時の心境ですとか

彼にしかわからない経験、体験、想いを、私達は共有すべきであると思うのです。

 

 

 

レポートでもないのに4000文字近く書くのは初めてかもしれません。

それだけ、強い思いをもってこの問題を考えている。

批判している人たちは、これほどの思いを持って批判しているでしょうか?

 

きっと、瞬間感じたことを、投げているだけでしょう?

 

同じはてなブログで書店の店員さんが批判しているのをチラッと見ました。

あのぐらいの熱意を持ってしてほしい。

そのぐらいの熱意がなければ、簡単に「自粛」なんて言わないでほしい。

 

長年の思いを込めてつづった文章であるし、

出版社の人も、考えつくした結果であるし。

それに付随していろんな人が動いて世に出回っている本です。

 

この手記に限らず、そうやっていろんな人が力を尽くしてできているものを

一時の感情で自粛しろだとか

そんなに簡単に言ってよいものなのでしょうかね?

 

自分でもこの件に関してこんなに熱意をもって書けるとは思いませんでした。

あまり読み返しもせず、感情で書いているので突っ込みどころはなかなかに

あるかと思います。どうにも論理的に書くのは苦手で。

 

まぁその練習の一歩として、とりあえずこの形であげてみて

何度か読み返して不備とか追加の理由とかあれば

加筆修正していこうかと思います。

 

もしここまで読んでくださった方がいらっしゃいましたら、

ありがとうございます、おつかれさまでした。

 

 

小食に厳しい世の中

 

ラーメンが好きだというと必ず、

クラスタから某有名大盛りラーメン店をオススメされます。

 

ラーメンがとにかく好きなわたしですが

こだわりがかなり強く、

煮干し、エビなどの魚介ベースは基本NG

つけ麺はラーメンには分類されない

などの自論を持っています。

(つけ麺はつけ麺というカテゴリで食したりはします。)

 

好きなスープはもちろん醤油です。

出汁はトリガラか豚骨。できれば前者だけど

後者もやっぱりおいしい。

中華屋さんのあっさりしたものが特に好きですが

ここ最近はとりあえずこってりさせておけばいいというような

風潮があるような気がして残念です。

スープにこだわるのはかまわないのですが

出汁に色々具材を使って結果値段が高いうえに

特においしくないってもうそれは本末転倒だと思うのです

 

シンプルで、勝負しよう。

 

という雑談はさておき、わたしが某店クラスタ様に申し上げたいのは

「半分にもできるよ!行ってみて!」についてでございます。

 

最近は小食やダイエット中の方を考慮して、

100円引きで量を少なくできるサービスを実施している

飲食店も多く存在します。

残してしまうことも多いわたしにとってはかなり助かるので

メインのボリュームが多い場合などに活用しております。

 

しかし、そういうお店で一緒に実施されているのが

「大盛り無料」のサービス。

どうして私達小食勢は100円引きで量を少なくしているのに

このサービスはタダで量を増やせるのか。

本来は100円払うべきではないのか。

どうしてなのか。。。。。

 

ケチなことを言うようで恥ずかしさもありますが、

そりゃあたくさん食べられるなら、お得感も出るし大盛りにしたいのです!

でもそんなことしたら太るし残すしなんのメリットもないのです!

お店のサービスを快く受けられないこの悲しさ!

まさに小食に厳しい世の中だと思いませんか?

 

実際、100円引きで量を少なくしたり、

半額+αほどの値段でハーフサイズを頼むと

なんとな~~~く、損をしている感が否めないのです。

だってどう考えてもコスパ悪いんだもの。

少量作るのってめんどうなのもわかるから文句は言えないんですけど

な~んか悲しくなってしまうことがあります。

 

 

で、本題だ。

某ラーメン店に行く方々って結局、

600~700円で大盛りにして、たらふく食べられて、

しかもそれなりにおいしいからそこに行ってるわけですよね。

 

その店に、小食のわたしが行った場合に、

みんなが同じ値段で倍量食べている中、半分のラーメンを食べる。

値引きもなしに。

それってどう考えても、「損」をしているように感じませんでしょうか?

 

わたしが考えすぎている節はもちろんあります。

でも、なんか、バカらしいんですよそれって。

100円でも安くなるならまだしもね…それにすら疑問を持つ私が

マシマシを食べている人たちに囲まれて半分を食べたくない…

 

もし、某店がハンブンで100円引きになったら、行くことを考えます。

ラーメンクラスタとしては一度は食べてはみたいですしね。

 

 

本当に、器の小さい人間だなぁと、二重の意味で、感じます。

本当に戯言って感じですが、この辺で。

 

 

 

 

 

批判人間が見る批判

 

今日は授業で表現の自由について勉強しました。

 

内容はとてもナイーブなのであんまり触れたくないようなものです。

⇒とか←とかそういう系のお話。

 

格別どっちに寄っているというのもないですが、

極端な場所におられる方には若干怖気づいてしまいますね。

 

身内にぽそぽそと読んでもらっているこんなブログでも

そんな内容を書き連ねれば、どちらかの方々から突っ込まれるのではと

冷や冷やしますので、まぁ、穏便にね。

 

で、本題です。

今日取り扱った表現の事件。

国のシンボルを題材にして、彼らを処刑するという小説を通じ

様々な問題が起こったという話です。

⇒の少年が編集長の家に行って家政婦さんをあやめてしまったとか。

怖すぎるんですが…まぁでも、そのぐらいひどい話ではあるとは思います

 

自分の友達とか両親とかが、実名で小説の中で殺されたら

どう思いますか?

よほど中二病とか、そういう性癖でもない限り普通は怒るし

不快な気持ちになりますよね?

 

いくら批判したいからとはいえ

そのような幼稚な表現方法をとって「表現の自由だ」と威張るのは

あまりにかっこ悪いと、私は感じるのですが。

 

そりゃあ私だって嫌いな人の一人や二人(ですむのだろうか)いますけど

小説の中で実名出して残虐非道な殺し方をして何がうまれるの?

そんなの妄想に留めてくれという話です。

 

家政婦を殺しちゃった⇒の人もどうかとは思います。

実行に移した事件で⇒の負けになってしまうように思えます。

そこは、幼稚な表現を高尚な表現で批判するとか

そういう態度を示していただきたかったなぁと思います。

 

まぁ少年だからねぇ、そんな風に考えられないんだねぇ。

というのはいいわけです。どんな理由があろうと人殺しはよくない…。

 

 

と、中立の立場にして、この辺で言及は打ち止めです。

ここからは個人的な感想です。

 

 

 

なんというか、偏見かもしれないけど、←の人たちって

こういう幼稚な表現しかできない人たちばっかりなんじゃないかなぁと

思い直す一件でございました。

 

ロックミュージシャンとかね。

ロックは好きだけど、彼らは、好きじゃない。

音楽としては最高だけど、歌詞には1ミリだって共感しません。

 

本物のロッカーにしてみたら、それはロックじゃないと言うでしょうが

私は音楽的に見てるだけなので、

歌詞とかクソダサくなければ別になんでもいいです。

いちいち主張をいれられても…。

 

音楽は一つの表現方法であることは理解できるんだけど

旋律に罪はないから、あんまり人を不快にさせるような言葉を

のせてほしいとは思わない。

 

今の時代、こうやってブログとかツイッターとかで

何かを発信すれば、それは表現になりますよね。

こんな問題提起なんてしちゃってますが

人を傷つけるようなことを大々的にいうのは、やっぱりよくないなぁと。

まぁいうにしても限度があるというか。

 

なにかものや人を批判してないと死んじゃうような人間で

「批判」そのものに対しては共感します。

が、ああいう奇抜を装って多くの人を傷つけるようなことは

もうほんとうに、絶対に、許せないなぁと。

 

これからは、品のある批判を心掛けたいなぁと思います。