航時機

昔のことを思い出しつつ気の向くままに書いてます。

君は本当に自由がほしいか

すごく久しぶりに元気なので書きます。

 

最近は書く仕事をちょいちょいやっているので

もうちょっと自分のためにもブログとかやらなきゃと思うんだけど

なにせ体力がないのでぼちぼちね。

 

というわけで、本日は自由について、

このブログのテーマの懐古を交えながら綴っていきたいと思います。

 

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中学を卒業するときはじめて、

自分がどこにも所属しなくなる経験をした。

 

小学校と中学校は義務教育だから、

卒業しても自動的に、どこかには所属することになる。

 

 

でも、高校からは義務教育じゃない。

高校に受からなければ何者でもないものとして

社会に放り出されることになる。

 

進学先が決まっていても、

3月中旬くらいに卒業してから4月の入学式を迎えるまでは

何者でもないものとして生きることになる。

 

むずがゆくて、宙に浮いた感じ。

 

誰も周りにいない。

家族以外の関わりから絶たれて

社会にひとり放り出されたような気がした。

 

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中学のときに感じたあのふわふわ感。

意図せずまた、味わうことになってしまった今日この頃。

 

高校から大学に進学するときは、ふわふわする余裕もなく

東京に出る心づもりもできぬまま毎日追われてたから

本当に久々なんですわ。

 

何にも属してない。

誰も守ってくれない。

 

何者でもない。

 

保険証もないし、社員証もないから

身分を示せるものもない。

安定した生活もない。

 

本当に一人ぼっちで、何にも縛られていない。

でも、何をするのも自由だ。

 

こういう生活に憧れる人は多いだろうし、

事実それがいいと選んで、その道を歩んでいる人もいる。

 

でも、自由があるということは、

自由に縛られるということでもある。

 

ふわふわ~っとしたものに静かに締め付けられていく感覚は

属した共同体に縛られるつらさとはまた別な

虚無感だったりとか、途方もない恐ろしさがある。

 

わたしはそれが本当に怖い。

自由が本当に怖いのだ。

 

ふらふらと何者にもならずあちこちをうろついて

やりたいことやれることをテキトーにやってるけれど

本当にやりたいことをやっているわけではない。

 

例えば何かしたいことがあったりすることがあって

自由を選択しているならいいかもしれない。

 

でもわたしは本気でやりたいこととか

本当に向いてることとかもわからないし

漠然とやってみたいなぁという気持ちはあるけど

安定しない現状に恐怖感じてばっかりで何もできない。

 

選択的自由は素晴らしいものだ

やりたいようにやって、

その結果がどうなっても自己責任で済ませられる

 

でも、自分が本当にむいてることとかやりたいことをやれる人なんて

そんなにいない…

だから何かに属するんだよね

 

わたしったら何かに属するのがとっても苦手なのに

属してないと怖くなっちゃうタイプだから

本当に世の中生きづらいなぁって思います

 

まあ正直金さえありゃ自由に暮らしますけどね……

そんなに甘くはない、人生。

 

 

 

自由のほうがいいんですかね

まぁわたし、自由向いてそうだとは思うんですけど

でももう少し何かに属してちゃんと勉強したいなぁとも思うんです

 

そしたらもっと自由のよさもわかるかもしれないし

(今のところは絶対属してた方がいいと思います)

 

明日からどうしよう

 

そんな自由に今日も苛まれて眠りにつくとします

 

こんくらいのうっすい文章なら30分くらいでかけるので

またぽろっと書くかもしれません

 

飽きずにお付き合いいただければ嬉しいです

 

 

ちいたむ拝

アビシニアンの子猫を迎えて1か月経ちました。

 

アビシニアンの子猫ねこたむを迎えて1か月経ちました。

就活中からずっとねこを飼いたくて、里親募集の投稿を見ては

わたしにはまだ無理かと諦めてきました。

 

大した残業をしているわけでもないのに精神疲労がありすぎて会社を休職し、

ズタボロのときにペットショップへ行き、アビシニアンのねこたむと出会いました。

 

あまりの可愛さに理性を失ってしまい、とりあえずお店を出てうろうろ。

その日の夜、もふもふ好きの方に相談して「やっぱり迎えよう!」と決心。

閉店ギリギリに電話をしてねこたむを迎えることになりました。

 

元々ねこを飼う気持ちは強かったので、

必要なものとか大体の費用はわかっていました。

決して安くはないけど、なんの目標もなくただ貯めていた貯金を

やっと本当にしたいことに使えた充実感がありました。

 

やってきたその日。ねこたむはずっとぐーぐー鳴いていました。

風邪ひいて鼻水すすってるのか!?と思ったのですが

どうやら甘えたときの音でした。

 

本当にずっとわたしの周りをうろちょろしていて

迎えて本当によかったと思ったことを記憶しています。

 

(今ではずいぶんあちこち飛び回ってるけど)

 

大変だと思っていたトイレのお世話はそこまで大変ではなかったです。

水洗トイレに流せる砂を使えば清潔だしニオイも気にならない。

私の不注意でお風呂で済ませるようになってしまって、その強制が大変なぐらい…

お布団とかじゃないだけ全然マシ!

 

あとは、お腹を空かせて朝おこしに来るのが困るくらいかな?

最近覚えた手は、帰ってきてからのご飯を気持ち少なくして

寝る直前にもう一回あげるというやり方。

 

丁度起きるくらいの時間にニャーニャーやりはじめるので

それからずっとその方法でやってます。

 

 

 

***

 

このブログのコンセプトは一応懐古なので

ちょっとだけ懐古しておきます。

 

わたしはずっと生き物を飼ったことがありませんでした。

母も父も犬を飼ったことがあり、

大変なことを知っていたからこそというのはあると思います。

 

小さい時にホームセンターでハムスターを飼わせてくれとごねたことがありました。

もちろん却下されました(笑)

ハム太郎世代としては飼ってみたかったなぁ。

 

祖母の家に猫が2匹いたことがありました。

アメショと三毛だったかなぁ。

祖母の家の周りにはたくさん木が生えていたので

夏になると猫ちゃんがセミをひっとらえて主人のところに持って行っていました。

 

当時はすごいなぁとおもってたけど、今そんなことされたら発狂してしまいますわ。

 

子どもは猫を追いかけてしまうので基本嫌われますが

何かのきっかけで猫に認められたことがありました。

それからわたしの後を追いかけてくるようになったんですが

外猫でちょっと狂暴ということもあって怖くて

祖母の後ろに隠れたことを思い出します。

 

二匹とも、ある時を境に家を出ていってしまいました。

住環境が変わってしまったことがきっかけだと思います。

お別れもできずなんとなく去って行ってしまったので

一緒に暮らしていなかったこともあり、思い出もぼやけてしまいました。

 

私の猫の思い出ってそのくらい。

あとは、父方の祖父母の家によくきていた野良猫が

近くのボス猫にやられちゃって来なくなったことぐらいかなぁ

 

猫との別れっていつも突然…なイメージ。

わたしはまだ子猫のねこたむがいついなくなってしまうんだろうと考えて

今から辛くなったりしています。

 

***

 

 

 

生き物と今までちゃんと関わってこなかったわたしは

ねこたむと暮らして色んな事に気づかされます。

 

母性がでてきたんじゃないですか!?と言われたこともあったのだけど

本当にそう思う。

守るものがあるっていいなぁ。

世間のお母さんたちが強い理由が分かった気がしました。

 

もちろん全然しつけもできないし(かわいくて)

お互いに傷つくこともたくさんあるんだけど

良いパートナーになれるようにこれからも手探りで頑張っていこうと思います。

 

フィギュア綺麗に並べてたやつを全部ひっくり返されたり

ベジータが分裂して首だけになってた)

わたしが食べてるものをとにかくめちゃくちゃ狙って来たり

大変なこともたくさんあるけど

 

帰りを待ってくれる可愛くてあったかい存在がいるって

本当に生きる活力が湧いてくるので

一緒に自殺する人を募集する前に生き物とともに生きることを考えてみてください。

 

マジで。

 

 

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正義感が社会適合の邪魔をする

 

お久しぶりです。

なんとか社会に適合しているようで、やはり社会に適合できない、

困ったわたしです。

 

 

自分が社会不適合者であることは、就活以前から薄々気づいていました。

それでも、少しずつ大人になり、なんとなく周りに合わせたり

嫌なことを飲み込んだりすることを覚えていきました。

 

そうして人は社会という、気色のわるい団体にまじっていくのだと感じていた矢先。

 

やっぱりわたしは社会に適合できないのだとつきつけられました。

このブログのコンセプトである懐古を通して連ねていきたいと思います。

 

***

 

わたしは中学時代風紀委員長をやっていました。

二次元は不良が好きとはいえど、現実の一切の悪を見逃さない超正義の持ち主でした。

 

悪口が書かれるからという理由で禁止されていた手紙交換。

それらしい紙を手にした女子生徒にとにかくつっかかる。

 

教科書を学校においていく「置き勉」。

紙袋や部活の用具に隠して置いていかれた可哀想な教科書たちを見つけだし摘発。

 

勿論のこと、素行の悪い生徒たちからは好かれませんでしたが、

わたしは何も悪いことをしていない。むしろ真っ当。

規則を守らない方が悪いじゃないですか。

 

それで一部の人に嫌われようと、かまわなかった。

規則を破らない人たちと仲よくすれば済む話。

 

そんな日々を過ごして、中学3年に上がった頃。

それまで風紀委員をやっていた女子生徒自身が置き勉をしていたことに気付いてしまうのです…

 

正直目からうろこというか、なんというか、にわかに信じられませんでした。

こんな簡単な規則も守れない奴が何を目的に風紀委員をやっているのか?

友人の友人だったし、様子を伺うことにしてみました。

 

見ていてわかったことだが、彼女は置き勉を見逃すことで、

クラスの女子たちとの関係を築いているようでした。

彼女に任せておけば教師に摘発されることもない。

リーダーシップの強い彼女は、友人たちを守っていたのでしょう。

 

わたしはそれまで、規則を第一に考えていた。

守らない人は悪い、等しくすべて罰せられるべき、そういう考えだった。

 

でも彼女は部活や生活で築いた友人関係を大切にしていました。

やっていたことがよくないとしても、友人間では信頼を得られたでしょう。

 

わたしはその後、慈悲もなく摘発することを止めるようにしました。

やめときなよ~と自分から注意し、特に教師に報告もないように。

置き勉をして何になるわけではない。その人自身が勉強をできなくなるだけだもの。

そんなことのために自分をいちいち削る必要はないのだと。

 

あたりまえのことだけど、こういう考えになってから少しは生きやすくなった気がします。

 

***

 

 

当時からとにかくに倫理観が強い。

悪いことは悪い。罰せられるべき。そういう考えが身についてました。

 

少しは和らいだとはいえ三つ子の魂なんとやら。

悪に対する考え方というか、これは悪いからしてはならないことだとか、

そういうことに対する拒否反応というか。

 

何度も繰り返すけど、二次元では不良が大好きだけど三次元の悪に対しては

全く持って許すことができないんです。

 

大学でも一応倫理を一生懸命やろうとしていたぐらいなので。

善と悪に対しては人一倍の信念があるようです。

 

しかしながら、社会というのは、皆さんもご存じのように悪にまみれています。

悪ってなんだよと言われてしまったらそれは答えられないけれど、

それでも「なんとなくいやだな~」と思うことが蔓延しているわけです。

 

フツーに生きてたらあまり出会うこともないかもしれないけど、

わたしはなんだか引きが悪いのか、そういうことに気付いてしまうことが多くて。

 

あまり詳細には書けないけれど、

真っ当に頑張っている人たちをバカにするようなことが当たり前のように執り行われている。

 

見えないようにしているだけで、見えてしまえば悪。

見なければいいんでしょうけど、頑張って上を目指すほどこういうところが見える。

 

見えてしまった暁には、

悪事を働いても痛みを感じないような人と一緒にいたくないって思ってしまうんですね。

 

 

フツーの人なら。社会に適合できている人なら、

あの風紀委員の女子のように見逃すのでしょう。

摘発することもなく、今まで通り何もなかったように振る舞うのでしょう。

 

でもわたしにはどうしてもそれができない。

新しい、真っ当な団体へ移動したいと考えてしまう。

(そしてたぶん、そんなところは世界のどこにもないでしょう。)

 

それが自分を苦しめることになったとしても、

不正を見逃すよりはましだから。

自分の意識の外で不正が行われているなら、仕方ないと感じられるから。

 

こんなこと言っていたら一生人と社会生活を共にすることなんてできないだろうと

気づくことができたはいいものの

だからといって考えを改めるつもりもないし

そもそもわたしが間違ってるのではないんだから)

自分の首がきつくきつくしまっていくだけです。

 

不正と悪と気持ち悪さとグロテスク、それを無視する人たちで形作られた

奇妙な集まりに属すということが生きるということなんでしょうか。

わたしの考えは間違っているんでしょうか。

社会に適合するってなんなんでしょう。

 

少なくとも日本社会においては、

自己を極限までなくして見て見ぬふりをし、指示通りに動くことこそが

適合といえるような気がします。

 

毎日毎日生きるだけで息苦しさを感じるのに

英語も話せないから海外に逃げることもできない。

そうやって心をすり減らして、明日もまた満員電車に詰め込まれる

社会不適合者なのでした。

 

海外はもっと開けてるのかな。

夢を持って渡航してまた同じ目に遭ってしまったら

そのときわたしは精神が崩壊しちゃうかもしれないので

そういう夢をひとつもっておくのもありかもしれないな、

 

という結びで、今日の散文を終えようと思います。