航時機

昔のことを思い出しつつ気の向くままに書いてます。

正義感が社会適合の邪魔をする

 

お久しぶりです。

なんとか社会に適合しているようで、やはり社会に適合できない、

困ったわたしです。

 

 

自分が社会不適合者であることは、就活以前から薄々気づいていました。

それでも、少しずつ大人になり、なんとなく周りに合わせたり

嫌なことを飲み込んだりすることを覚えていきました。

 

そうして人は社会という、気色のわるい団体にまじっていくのだと感じていた矢先。

 

やっぱりわたしは社会に適合できないのだとつきつけられました。

このブログのコンセプトである懐古を通して連ねていきたいと思います。

 

***

 

わたしは中学時代風紀委員長をやっていました。

二次元は不良が好きとはいえど、現実の一切の悪を見逃さない超正義の持ち主でした。

 

悪口が書かれるからという理由で禁止されていた手紙交換。

それらしい紙を手にした女子生徒にとにかくつっかかる。

 

教科書を学校においていく「置き勉」。

紙袋や部活の用具に隠して置いていかれた可哀想な教科書たちを見つけだし摘発。

 

勿論のこと、素行の悪い生徒たちからは好かれませんでしたが、

わたしは何も悪いことをしていない。むしろ真っ当。

規則を守らない方が悪いじゃないですか。

 

それで一部の人に嫌われようと、かまわなかった。

規則を破らない人たちと仲よくすれば済む話。

 

そんな日々を過ごして、中学3年に上がった頃。

それまで風紀委員をやっていた女子生徒自身が置き勉をしていたことに気付いてしまうのです…

 

正直目からうろこというか、なんというか、にわかに信じられませんでした。

こんな簡単な規則も守れない奴が何を目的に風紀委員をやっているのか?

友人の友人だったし、様子を伺うことにしてみました。

 

見ていてわかったことだが、彼女は置き勉を見逃すことで、

クラスの女子たちとの関係を築いているようでした。

彼女に任せておけば教師に摘発されることもない。

リーダーシップの強い彼女は、友人たちを守っていたのでしょう。

 

わたしはそれまで、規則を第一に考えていた。

守らない人は悪い、等しくすべて罰せられるべき、そういう考えだった。

 

でも彼女は部活や生活で築いた友人関係を大切にしていました。

やっていたことがよくないとしても、友人間では信頼を得られたでしょう。

 

わたしはその後、慈悲もなく摘発することを止めるようにしました。

やめときなよ~と自分から注意し、特に教師に報告もないように。

置き勉をして何になるわけではない。その人自身が勉強をできなくなるだけだもの。

そんなことのために自分をいちいち削る必要はないのだと。

 

あたりまえのことだけど、こういう考えになってから少しは生きやすくなった気がします。

 

***

 

 

当時からとにかくに倫理観が強い。

悪いことは悪い。罰せられるべき。そういう考えが身についてました。

 

少しは和らいだとはいえ三つ子の魂なんとやら。

悪に対する考え方というか、これは悪いからしてはならないことだとか、

そういうことに対する拒否反応というか。

 

何度も繰り返すけど、二次元では不良が大好きだけど三次元の悪に対しては

全く持って許すことができないんです。

 

大学でも一応倫理を一生懸命やろうとしていたぐらいなので。

善と悪に対しては人一倍の信念があるようです。

 

しかしながら、社会というのは、皆さんもご存じのように悪にまみれています。

悪ってなんだよと言われてしまったらそれは答えられないけれど、

それでも「なんとなくいやだな~」と思うことが蔓延しているわけです。

 

フツーに生きてたらあまり出会うこともないかもしれないけど、

わたしはなんだか引きが悪いのか、そういうことに気付いてしまうことが多くて。

 

あまり詳細には書けないけれど、

真っ当に頑張っている人たちをバカにするようなことが当たり前のように執り行われている。

 

見えないようにしているだけで、見えてしまえば悪。

見なければいいんでしょうけど、頑張って上を目指すほどこういうところが見える。

 

見えてしまった暁には、

悪事を働いても痛みを感じないような人と一緒にいたくないって思ってしまうんですね。

 

 

フツーの人なら。社会に適合できている人なら、

あの風紀委員の女子のように見逃すのでしょう。

摘発することもなく、今まで通り何もなかったように振る舞うのでしょう。

 

でもわたしにはどうしてもそれができない。

新しい、真っ当な団体へ移動したいと考えてしまう。

(そしてたぶん、そんなところは世界のどこにもないでしょう。)

 

それが自分を苦しめることになったとしても、

不正を見逃すよりはましだから。

自分の意識の外で不正が行われているなら、仕方ないと感じられるから。

 

こんなこと言っていたら一生人と社会生活を共にすることなんてできないだろうと

気づくことができたはいいものの

だからといって考えを改めるつもりもないし

そもそもわたしが間違ってるのではないんだから)

自分の首がきつくきつくしまっていくだけです。

 

不正と悪と気持ち悪さとグロテスク、それを無視する人たちで形作られた

奇妙な集まりに属すということが生きるということなんでしょうか。

わたしの考えは間違っているんでしょうか。

社会に適合するってなんなんでしょう。

 

少なくとも日本社会においては、

自己を極限までなくして見て見ぬふりをし、指示通りに動くことこそが

適合といえるような気がします。

 

毎日毎日生きるだけで息苦しさを感じるのに

英語も話せないから海外に逃げることもできない。

そうやって心をすり減らして、明日もまた満員電車に詰め込まれる

社会不適合者なのでした。

 

海外はもっと開けてるのかな。

夢を持って渡航してまた同じ目に遭ってしまったら

そのときわたしは精神が崩壊しちゃうかもしれないので

そういう夢をひとつもっておくのもありかもしれないな、

 

という結びで、今日の散文を終えようと思います。