航時機

昔のことを思い出しつつ気の向くままに書いてます。

小学5年生のあの日のこと~道徳の授業について

 

ここ数日、人様の善悪概念というものに

見下されるような人間ながら、落胆する毎日でございます。

 

これはいい!これはダメ!

 

感覚的に、民俗的に体に染みついているものなので

こういうものを大人になって何度も見返すというようなことは

よほど物好きな人でもない限りないかと思います。

 

私は自分自身の善悪判断基準とか道徳的な概念とかが

欠如していることが多々あると自覚しているので

考え直すために、倫理学の勉強をしていたわけですが

 

正直、わたしほどひどくはなくても、

そのような思想がしっかりと確立されているような人というのはなかなかいません。

 

だれもが自分の道徳的な考え方を見直す必要があると私は考えています。

そうすればきっと、もっと生きやすい社会になると思う。

人はすべてにおいて、分かり合うことは不可能だからこそ、

部分的に理解が深められるよう、自分自身を知っておく必要があるのです。

 

 

さて本題ですが。

私は道徳の授業はあるべきだと考える一人です。

もちろん、教師の思い上がった善悪判断基準を押し付けるために

使われる危険性があるというのは重々承知の上です。

 

道徳の授業というのは、生徒も先生も一緒になって

もう一度、善悪について考えるよい機会であると感じるからです。

 

私は道徳の授業は格別好きだとか嫌いだとかは感じませんでしたが

道徳の教科書には色々なお話が書いてあるので、それを読むのが好きで

先生の話もそっちのけに文章を読んでいることが多かったです。

 

今もサスペンスが好きなので、昔から悲しい話とか考えさせられる話とか

好きだったのかもしれない。

 

そんな、マイペースな生徒もいるからなのでしょうか、

あるとき担任の先生が「ロールプレイをしよう」と言い始めました。

 

同じクラスだった人は覚えてるかもしれないけど、

私のクラスではちょっとしたいじめがありました。

 

詳細には書きたくはないんですが、

あまりクラスになじめない子がいまして。

 

私は鼻がきくから、どうしてもその子の生活臭がダメだったんです。

他の子たちも同様に、そういう理由で避けていました。

親御さんが日本人じゃないという話を聞き、文化の違い的なものかなぁと

子どもながらに感じていました。

 

当然その子は学校に来づらくなり、担任の先生も頭を抱える。

そこで彼は、いじめの「ロールプレイ」を始めました。

 

前の席に座っていた男の子に「ちょっといじめられる役をやって」と言い

おふざけ交じりに罵倒しはじめました。

ほんとに、どうでもいいようなことで、あまり内容は覚えてないんですが

泣いちゃったんですよ、その彼が。

 

私はすごいショックを受けました。

ロールプレイでも泣いちゃうんだって。

そのぐらいつらいことなんだなぁって。

 

今でもこのショックを覚えているぐらいだから、

先生のロールプレイ作戦は成功なんだなぁと思います。

 

その前には、先生が小学生の時に体験した

義眼の子へのいじめの話をアツくした時もありました。

詳しくは覚えてないけど、すごいアツかった。

その時の後悔とかをぶつけてくれた気がします。

 

ただ、当時はちょっと擦れてるものだから

あんまり響かなかったんだよね。

もちろん、先生がしてしまった後悔とか悲しい出来事だなぁとか

感じはしたんだけれど

「確かにその子は可哀想だけど、うちのクラスの問題とはちがう」

というような線引きをしていたと記憶しています。

 

でも、ロールプレイをすることで、

いじめがどうしてダメなのか?どう傷つくのか?

そういう、わかるけど、本質的にわかってはいないことを

身に染みて感じることができた。

 

これがいい、あれがわるい、そんなこと、わかってるんですよ。

子どもだって犯罪者だって、なんだって。

(たまにわかってない人もいますが…それこそ道徳の授業が必要)

その、「わかる」を、本当の「わかる」にすることが

道徳の授業の意義なのかなぁと思います。

 

あれがいいと思っていたことは、本当はそうでもなかった、ということに

気づくことだってあると思います。

いろんな考え方があっていいんですよ。それを交換しあう場なんです。

そういう、自分と違う考えの人とどう向き合っていくかも考えていかなきゃいけない。

これは、小さければ小さいほど意味があると思います。

 

私はそれなりに歳がいってから理解できるようになってきたので、

それまでの自分がすごくみじめになりましたので…(笑)

 

 

おちゃらけた先生で、給食の時間隣の教室にいき、

女の先生とコミュニケーションをはかるために

残った給食を持ってきて男子生徒によそうことで結婚にこぎつけた先生。

お元気でしょうか。

 

なんだかんだ、私は彼に学んだところがあるのだなぁと今になって感じます。

もう連絡先が分からないのですが、知ってる人がいたら一緒に会いに行きたいですね。

 

 

 

 

さて戻りますと、同じ内容を扱うとしても、

やり方次第で子供たちに考えさせることができるのが道徳の授業です。

頭だけ使わせても、なかなか入り込めないものです。

感受性豊かな子どものうちに、色々な方法で、様々な問題について

考えてもらいたいなぁと、私は常々感じております。

 

中学までは組み込まれている道徳の授業も

高校になればなくなってしまう。

高校生にだっていじめとか、小さいことをする人もいるんですよ。

道徳という授業の形でないとしても、

わたしたちは、もっと、身近な善悪とか倫理観について

語り合う場が必要なのではないかと思っております。

 

他人の意見を罵倒するためにあるわけじゃないです。

そういう考えの人もいる、その考えの人たちはどうしてそう考えるのか

それらを知ることに意味があるんです。

 

 

 

私はここ最近みる例の批判に関しまして、

思考停止して「ダメ」と言っている人が多いように思えます。

率直に言えば、その「ダメ」がなぜ「ダメ」なのか言及されていないから

読む価値もない、そういうことです。

 

せっかく論じるなら、「なぜそう思うか?」を明記してくれたらいいのになぁと思います。

 

そのためには事象についてしっかりと把握する必要がある

意見を述べるというのは意外に難しいよねというタイトルには少し反した形で

この記事を終えようかなぁと思います。

 

だからこそ、道徳の授業で、考える力を養ってほしい。

道徳に関するディベートとか、もっとやるべきだよ。

例えば電車で物を食べていいか、とかそんな小さなことでも

人によって違いがみられる。

そういう小さな違いの発見を、もっと子供たちにしてほしい、そう願っています。

 

今、わたしには力がありませんが、

いつか、そういう、子供たち同士で「考える」ことができる物語なんか

書くことができたらいいなぁと思っております。