航時機

昔のことを思い出しつつ気の向くままに書いてます。

祖母が本を読めなくなった話

 

大変お久しぶりです。

書きたいことはちょぽちょぽあるものの

体力がなかったり、いろんなことに興味持ってかれたりで

しばらくぶりになりました。

 

今日は帰省した時にすごくショックだったことを

備忘録として書き記しておこうと思います。

 

***

 

私は母方の祖母が大好きでした。

あまりランキングをつけたりするのはよくないけれど、

一番よく遊んでもらったり、一緒にいる時間が長かったこともあり

母方の祖母には特別な思い出があります。

 

祖母はとても優秀な人でした。

兄弟が多く、当時貧しかったこともあり進学することはできませんでした。

世が世でなければ有名大学にも入れた人だと思います。

 

祖母は昔手術をしたときに、医療ミスで大きな病気にかかりました。

そんなことを気にもとめず、治療をしながら働いて、元気に過ごしていました。

 

趣味が多い人で、書道や絵画、料理も楽しんでいました。

中でも読書が好きで、様々な本が棚に並んでいるのを、幼い頃から見てきました。

 

私が小学生の頃、1巻目にして挫折したハリーポッター

喜んで全部読んだのは祖母です。

一緒に本屋さんにいって詩集を買ってもらったこともあります。

 

私が大きくなって従妹が生まれると、

彼女たちを連れて図書館に行き、様々な本を借りては読んでいました。

 

時が進むにつれ祖母の持病はどんどん悪くなり、

自転車に乗れなくなり、出歩けなくなり、ついには家にこもりきりになってしまいました。

それでも、小さい従妹と一緒に暮らしているので、

寂しいこともないだろうと安心していました。

 

***

 

私は勉強もしたくないのに大学に入りました。

大学に入らないと見えないカーストから這い上がることができないから。

あまり入る意味もないレベルとはいえ、親に迷惑かけて入れてもらいました。

 

入りたい大学でもないし、やりたい分野がなかったし、

とにかく単位さえとってあとは遊んでました。

もともと野性的で常識がなかったので、いろんな人に教えてもらいながら

社会性を身に着けていきました。

 

そうしてある程度したころ、ああ勉強したいなぁと思いました。

それは大学4年生になってからでした。

 

余分に単位をとるようなことはなかったけど、

他学科聴講なんかもして楽しく終えられたので、4年の授業は意義あるものでした。

 

本当にもったいないことをしたからこそ

今身になることをしようと思って、とりあえず読書からはじめました。

頭のいい人はやっぱり本を読んでる。

友達や著名人ももちろんだけど、やっぱり祖母が浮かびました。

 

***

 

久しぶりに実家に帰って、父母とたわいもない話をして、

体も弱くなってきてるしと、祖母の家に連れて行ってもらいました。

 

色んな本も読んだし、何かおすすめできたらいいな。

読んだ方がいいものを教えてもらいたいな。とか

そんなことをぼんやり考えていました。

 

従妹と遊んで一段落した頃にそんな話を振ると、

あまりに切ない言葉に胸をつかれて、それからしばらくは目を伏せていました。

 

「もう本は読めないんだ」

 

そう言ってしばらくして、本を三冊渡されました。

「読み切れなかったから持っていきな」と。

湊かなえさんの本2冊と、若者向けの短編集(流行りの作家さんばかりだった)。

ずいぶん新しいのを読むもんだとビックリしました。

 

祖母は、身体のどこかしこ悪くなり、ついに目も悪くなって、

眼精疲労から肩こり、頭痛がして読めなくなってしまったのだそうです。

 

中をぱらぱらとめくると、しおりがはさまっていました。

どの本も、三分の一程度のところ。

途中までは読んだんだ、ここで辛くなっちゃったのかな、と思うと

神様が憎たらしくて仕方ありませんでした。

 

人生の楽しみを失ったら、生きていけない。生きられない。

 

先に亡くなった父方の祖母は食が趣味で、

作るのも、食べるのも大好きだったけれど、

どちらもできなくなった頃にこの世を去りました。

 

実を言うと、祖母は書道と絵画はもうしていなかったのです。

体が動かなくなっていたのかもしれません。

体力がないからもちろん料理もできませんでした。

 

ベッドの上で楽しめる唯一の趣味を取り上げられたら…

私はもう何も考えられず、腕の中の本をめくりながら、

白地に漂う文字たちをただただ見つめていました。

 

***

 

自分のことでもないのに、とにかく悲しくて仕方がありません。

祖母にはどうしても、読書という趣味を失ってほしくないのです。

 

弱視の方やお年寄りが読みやすいバリアフリーの本があったり、

電子書籍を使えば文字を大きくすることもできます。

 

ただ、体が疲れてしまうというのに、無理強いするわけにもいきません。

 

この話を母に話したところ、

もういいって言っているんだからと、バリアフリーの本の購入は止められました。

 

祖母にも他の楽しみはあるんだと。

 

祖母は昔から音楽が好きだったそうです。

ラジカセで音楽を聞いて合わせて歌ったり。

先日父がCDを作ってあげたなんていう話も聞きました。

 

本当に多趣味な人なんだと改めて尊敬して、ほっとしました。

楽しめることがあるなら、急に体調が悪くなることもないでしょう。

これからも元気でいてほしいです。

 

それでもやっぱり諦めきれないので、

もう少し詳しく調べて、自分でも実際に手に取ってよく考えてみようと思います。

 

***

 

祖母のことを考え直してこんなに悲しくなるとは思いませんでした。

でも、泣いてるだけでは何もならないので、

祖母と同じくらいたくさん本を読もうと思います。

 

また、好きなことがたくさんあるということはとっても大事なことです。

本当に好きなものが一つだけだと、それをなくした時に生きられなくなります。

 

昔は一つでいいと思ってました。

大好きなB'zのわるいゆめという曲にこんなフレーズがあります。

 

好きなものなんかない方が 楽な道を歩ける

なくしたって笑っていられる マガイモノに囲まれたい

(『わるいゆめ』 B'z 2007年)

 

本気で好きになんてならず、にわかぐらいの気持ちでいた方が幸せ。

好きなものでうまくいかなかったときにいつもこの曲を口ずさんでいました。

 

でも、祖母を見ていると本当はそうじゃないのかなぁと。

大好きなものがたくさんあって、どれも全力でやった方がいいのかもしれない。

 

同じく大好きなレイザーラモンRGさんの著書「人生はあるあるである」には、

こんなことが書かれていました。

 

今何かに本気になれない、という人は多いかもしれないけど、ひとつ「これが好き」と少しでも思ったら、それ自体が自分の仕事にならなくても、その過程は必ずその人の力になるはずだ。

(『人生はあるあるである』 レイザーラモンRG 2016年)

 

RGさんは趣味が豊富で、プロレスや音楽のほかにもバスケットや漫画など、

ありとあらゆるところにアンテナを張っている方です。

 

彼が言っているのは、好きなことが生きていく上で何かしら役立つということだけど

それは、仕事上に限ったことではないと思います。

 

つまらない毎日を明るく過ごす手立てとしてより多く持つことで、

何かにつまずいた時にもうまく立ち直れるかもしれません。

 

あれもこれもやったら中途半端になってしまいそうなものだけど、

ひとつひとつ丁寧に極めて、より人生を楽しんでいけたらと思います。

 

***

 

長くなってしまったし、泣きながら書きつづったので

いつもより拙い文章かと存じますが、

ここまで読んでいただいた方がいたら、ありがとうございます。

 

最後RGで締めくくるとはまさか思ってなかったけど!

とてもいい本なのでそのうち感想のブログも書きたいです。

 

とにかく、好きなものをたくさん持つこと。

人生は有限だと感じながら生きることは大切だと思います。

震災の時に思ったことだけど、今日また心に刻んで

明日も頑張って生きてみようと思います。

 

 

文章がうまくなりたいやつは音読しろ

 

お久しぶりの投稿となります。

実は、前の記事から2つ3つ書いてはいるんですが、

うまくまとまらなかったり、読み返す元気もなくて

あとであげようあげようと思っているうちに

また新しくネタが思いつきました。

 

タイトルがかなり挑発的でございます。

内容も、小説などを書いてる方は不快に思われるかもしれません。

ただ、自分自身、せっかく設定や内容が良くても、

伝えたいことがわからず読み進められないという事態に何度か遭遇しているので

もし、私なんかの話を聞いてくださる方がいればと思い、今回投稿に至りました。

 

あくまで、書き手としてでなく、享受するだけの者の戯言だと思ってください。

 

 

わたしはとにかく、文章にこだわりがあります。

 

ブログ程度でそんなことをやる必要はないかと思いますが

読んでくださる方が少しでもいらっしゃるうちは、

なるべくわかりやすく、頭に入ってきやすい文章にできるよう心がけ

何度か読み返すようにしています。

(だから更新しなくていいやってなっちゃうのですが)

 

プロの文章をさっと眺めた時、心にすーっと入ってはこないでしょうか。

わたしはこの、すーっとした感覚が好きです。

たとえば森絵都さんのような、

シンプルでありながら奥ゆかしい表現をする作家さんの本を好んで読みます。

 

森絵都さんに限らず、

どのプロの本も頭に直接入り込んでくる、と私は考えています。

 

それは、プロの作家たちの実力もさることながら、

多くの書物を目にしてきた編集者がチェックを入れ、

おかしな表現などを校正しているからでしょう。

 

素晴らしい文章というのは書き手だけの力でなく、

プロの読み手あってのものなのではないでしょうか。

 

だからこそ、アマチュアの文章をよくしていくのは難しいと思うのです。

文学部出身や業界人でもないかぎり、読み手は基本的に素人です。

表現に疑問を覚えたとしても、「ここおかしいよ」だなんて言えないと思います。

同時に、言ったところでどうしておかしいか分かってもらうのは難しい。

 

文学部でもなく、本を多く読んでいるわけでもない私が

どうしてこれほどまでに自信を持って文章に物申せるのか。

自分でも気付かなかったのですが、ついに理由を見いだせたのです。

 

 

それは、音読や読み聞かせ、朗読です。

 

 

小学生のころ、音読カードなるものをやらされていたかと思います。

私はほとんどサボることもなく、母にチェックを入れられ取り組んでいました。

また、小学4年生の頃には小話のようなものに挑戦するなど、

文章を読んで表現することに多く関わってきました。

 

中学に入ってからは朗読でコンテストに出場し、

高校時代も同じように放送委員会で活動しておりました。

 

ゴタクはどうでもいいのですが、とにかく文章を音読してきたのです。

その数なら、それなりに負けていないと言い張れます。

 

朗読で放送コンテストを経験された方はご存知でしょうが、

小説を音読するのは、大変難しいものです。

形容詞が連なり、更に文章が続いていく。どこで切っていいか分からない…

意味が伝わるにはどうすればいいか、皆頭を悩ませています。

ただ読むのは簡単ですが、伝えようとすると難しいんですよね。

 

このような悩みを繰り返すうちに、なんとなくですが、

文章の良し悪しがわかってきたのではないかと思うのです。

 

こういう文章表現はわかりやすいだとか、こういう言葉の響きがいいだとか。

本と睨めっこして発見することもありますが、

声に出して初めてその美しさに気付くこともたくさんあります。

 

 

それでは本題に入ります。

 

アマチュアの方が書いた文章を読んでいると、

せっかく素敵な表現があっても、

前後の文章とのつながりが分かりにくかったり、

主語が述語に対応していなかったりすることが、結構あります。

 

ここで思い出してほしいのが、

文章をよくするために必要なのが「読み手」であるということです。

 

自分の文章の評価は難しいですが、

音読をすることで、それを可能にできるのではないでしょうか。

 

声に出してみると、一歩引いた見方ができます。

さすがにこのセンテンスは長すぎるかな…なんていうのも、

書いている途中にはわかりません。

読んでみてはじめて「長すぎるよ!!」と思えるのです。

 

頭に思いつくものをそのまま書き連ねるのだから、

上手く伝えられないのはあたりまえだと思います。

わたし自身、これを書いていて、

ちゃんと伝わっているかとても心配になっております。

(ここまで言い切ってるのでそりゃあそう)

 

このような、ひとつの主張をするブログは、

論文構成にすれば文章がちょっと下手でも人に伝えることができますが

小説となるとそうはいきません。

 

そんな小説に、わたしが「読み手」として言えることは、

 

・声に出して読むと響きの綺麗な言葉や表現を覚えていく

 ⇒それらを技として盗み、自分の文章に生かせる!

 

・声で伝えようとすることで、文章について考えなおせる

 ⇒伝わりにくいと思ったとき、直せるのです、作者だから!

 

という2点です。

 

私は書き手ではありません。きちんとした形で小説を書いたこともありません。

「読んでるだけのくせに」と思ってくださって構いませんが、

もし、面白そうだと思ってやってくださる書き手の方がいれば幸いです。

 

ぜひ、好きな小説を音読してみてください。

お気に入りのシーンを何度も繰り返し読む方がいいと思います。

より深く、文を見つめることができるからです。

 

本当に文章が上手くなるかは別としても、音読に触れて、

頭の中で完結していたものが音として生まれる美しさに出会っていただければ何よりです。

 

 

思いつくまま書いていて、自分も朗読をやりたくなったところで、

このブログを終えたいと思います。

 

 

何が人を大人にさせるのか

 

新年あけまして初記事となります。

本年もよろしくお願い致します…っていうほど、

去年たくさん記事を書いてきたわけではないのですがね。

 

気持ち新たに始められるよう、

ブログデザインなども変えてみました。

プロフィールつけてみたり、カテゴリ加えてみたりしたので

興味のある人はぽちぽちしてみて頂けると嬉しいです。

 

 

というわけで本論に入りましょうかと…

 

 

この時期になると、というか、何か行事にかこつけて

「○○で嬉しくなくなるなんて、俺も大人になったなぁ」

「昔は○○になるとすごい楽しみだったのに…私ももう子供じゃないんだね」

というような人たちがいる。

 

私は、このような方々がどうにもこうにも解せないのだ。

 

確かに、子どものころはなんの行事も新鮮な気持ちで楽しめた。

クリスマスにはプレゼントを楽しみにしたし、

早く誕生日が来ないかと心待ちにした。

お正月に家族そろってお雑煮を食べることも、

夏休みに祖父母の家で線香花火をすることも…

 

年を重ねればそれらが当たり前になってしまうことは避けようがない。

しかしながら、それらを楽しみにできないのは、

本当に大人になったから、それだけなのだろうか。

 

一つ一つの出来事を楽しみにできなくなったのはきっと、

それ以外の楽しみを知ってしまったから、

子どもの頃より広い世界を手に入れたからだろう。

 

行事で盛り上がるパリピなるものも存在してはいるが、

行事がなくても、友人と集まって何かすることはできるし、

自分の欲しいものは自分で買うこともできる。

プレゼントやおこづかいを貰える日を心待ちにする必要はない。

(給料日が心待ちなのは大人も子どもも一緒だけどね!)

 

変化してしまった自分を見つめ、当時を思い出しノスタルジーに浸るのが好きな人には

特に何を言うこともないのだけれど、

もし本当に、またあの頃のように楽しみたいと思っているのならば

自発的にそうすればいいじゃないか。

 

もう受動的でいるだけの存在ではないのだから、

自らの思いを変えてみたり、何かを企画する必要性がある。

 

年はどうやったって重ねられてしまうし、体もどんどん大人になって老いていくけど

精神だけは、どうにだってすることはできると思う。

 

私はいつまでも子どもでいたい。

子どものまま、大人になりたいと思っている。

 

理由は色々あるけれど、一番は、

東京に出て、社会を広げて、色々な大人…いろんな人に会ってきて、

子どものように何事も楽しんでいる人がとても輝いていると思ったから。

 

一緒にいるだけで楽しいのに、色々学ばせられて、

やっぱり子どもだけど大人なんだと感じる、そんな人に憧れる。

 

子どもでいられる人は限られている存在だけど

思いさえ変わらなければ、どんな立場の人もそういられる気がする。

 

いい年こいてしっかりしない、ダメな大人になれということではなく、

自分の今あるスキルだとか力をうまく利用して

子どものように人生を楽しめたらいいなと、私はそう思うのです。

 

思えば子供の頃って、狭い環境で、少ない道具を使って工夫して遊んでた。

自分が楽しくなるために頑張ってたんだよね、気づかない間に。

 

大人になって、「大人になっちまった」と思ってた頃にやっと気づいた。

 

楽しくなるにはやっぱり、自発的じゃなきゃいけない。

 

保守的になった時、ただ受動的に生きるようになったとき

人は大人になってしまうんじゃないでしょうか。

 

いつまでも自発的に、何事も楽しめるような人間になれるよう、

今年も色々企画していければいいなぁと、自分に言い聞かせて、

このブログを閉じようと思います。

 

同時に自分のダメな子ども精神を少しずつ直していければと…

 

 

色々と、今年に向けての目標はございますがまず一つ目!

追って少しずつ書いていければよいです。