航時機

昔のことを思い出しつつ気の向くままに書いてます。

文章がうまくなりたいやつは音読しろ

 

お久しぶりの投稿となります。

実は、前の記事から2つ3つ書いてはいるんですが、

うまくまとまらなかったり、読み返す元気もなくて

あとであげようあげようと思っているうちに

また新しくネタが思いつきました。

 

タイトルがかなり挑発的でございます。

内容も、小説などを書いてる方は不快に思われるかもしれません。

ただ、自分自身、せっかく設定や内容が良くても、

伝えたいことがわからず読み進められないという事態に何度か遭遇しているので

もし、私なんかの話を聞いてくださる方がいればと思い、今回投稿に至りました。

 

あくまで、書き手としてでなく、享受するだけの者の戯言だと思ってください。

 

 

わたしはとにかく、文章にこだわりがあります。

 

ブログ程度でそんなことをやる必要はないかと思いますが

読んでくださる方が少しでもいらっしゃるうちは、

なるべくわかりやすく、頭に入ってきやすい文章にできるよう心がけ

何度か読み返すようにしています。

(だから更新しなくていいやってなっちゃうのですが)

 

プロの文章をさっと眺めた時、心にすーっと入ってはこないでしょうか。

わたしはこの、すーっとした感覚が好きです。

たとえば森絵都さんのような、

シンプルでありながら奥ゆかしい表現をする作家さんの本を好んで読みます。

 

森絵都さんに限らず、

どのプロの本も頭に直接入り込んでくる、と私は考えています。

 

それは、プロの作家たちの実力もさることながら、

多くの書物を目にしてきた編集者がチェックを入れ、

おかしな表現などを校正しているからでしょう。

 

素晴らしい文章というのは書き手だけの力でなく、

プロの読み手あってのものなのではないでしょうか。

 

だからこそ、アマチュアの文章をよくしていくのは難しいと思うのです。

文学部出身や業界人でもないかぎり、読み手は基本的に素人です。

表現に疑問を覚えたとしても、「ここおかしいよ」だなんて言えないと思います。

同時に、言ったところでどうしておかしいか分かってもらうのは難しい。

 

文学部でもなく、本を多く読んでいるわけでもない私が

どうしてこれほどまでに自信を持って文章に物申せるのか。

自分でも気付かなかったのですが、ついに理由を見いだせたのです。

 

 

それは、音読や読み聞かせ、朗読です。

 

 

小学生のころ、音読カードなるものをやらされていたかと思います。

私はほとんどサボることもなく、母にチェックを入れられ取り組んでいました。

また、小学4年生の頃には小話のようなものに挑戦するなど、

文章を読んで表現することに多く関わってきました。

 

中学に入ってからは朗読でコンテストに出場し、

高校時代も同じように放送委員会で活動しておりました。

 

ゴタクはどうでもいいのですが、とにかく文章を音読してきたのです。

その数なら、それなりに負けていないと言い張れます。

 

朗読で放送コンテストを経験された方はご存知でしょうが、

小説を音読するのは、大変難しいものです。

形容詞が連なり、更に文章が続いていく。どこで切っていいか分からない…

意味が伝わるにはどうすればいいか、皆頭を悩ませています。

ただ読むのは簡単ですが、伝えようとすると難しいんですよね。

 

このような悩みを繰り返すうちに、なんとなくですが、

文章の良し悪しがわかってきたのではないかと思うのです。

 

こういう文章表現はわかりやすいだとか、こういう言葉の響きがいいだとか。

本と睨めっこして発見することもありますが、

声に出して初めてその美しさに気付くこともたくさんあります。

 

 

それでは本題に入ります。

 

アマチュアの方が書いた文章を読んでいると、

せっかく素敵な表現があっても、

前後の文章とのつながりが分かりにくかったり、

主語が述語に対応していなかったりすることが、結構あります。

 

ここで思い出してほしいのが、

文章をよくするために必要なのが「読み手」であるということです。

 

自分の文章の評価は難しいですが、

音読をすることで、それを可能にできるのではないでしょうか。

 

声に出してみると、一歩引いた見方ができます。

さすがにこのセンテンスは長すぎるかな…なんていうのも、

書いている途中にはわかりません。

読んでみてはじめて「長すぎるよ!!」と思えるのです。

 

頭に思いつくものをそのまま書き連ねるのだから、

上手く伝えられないのはあたりまえだと思います。

わたし自身、これを書いていて、

ちゃんと伝わっているかとても心配になっております。

(ここまで言い切ってるのでそりゃあそう)

 

このような、ひとつの主張をするブログは、

論文構成にすれば文章がちょっと下手でも人に伝えることができますが

小説となるとそうはいきません。

 

そんな小説に、わたしが「読み手」として言えることは、

 

・声に出して読むと響きの綺麗な言葉や表現を覚えていく

 ⇒それらを技として盗み、自分の文章に生かせる!

 

・声で伝えようとすることで、文章について考えなおせる

 ⇒伝わりにくいと思ったとき、直せるのです、作者だから!

 

という2点です。

 

私は書き手ではありません。きちんとした形で小説を書いたこともありません。

「読んでるだけのくせに」と思ってくださって構いませんが、

もし、面白そうだと思ってやってくださる書き手の方がいれば幸いです。

 

ぜひ、好きな小説を音読してみてください。

お気に入りのシーンを何度も繰り返し読む方がいいと思います。

より深く、文を見つめることができるからです。

 

本当に文章が上手くなるかは別としても、音読に触れて、

頭の中で完結していたものが音として生まれる美しさに出会っていただければ何よりです。

 

 

思いつくまま書いていて、自分も朗読をやりたくなったところで、

このブログを終えたいと思います。

 

 

何が人を大人にさせるのか

 

新年あけまして初記事となります。

本年もよろしくお願い致します…っていうほど、

去年たくさん記事を書いてきたわけではないのですがね。

 

気持ち新たに始められるよう、

ブログデザインなども変えてみました。

プロフィールつけてみたり、カテゴリ加えてみたりしたので

興味のある人はぽちぽちしてみて頂けると嬉しいです。

 

 

というわけで本論に入りましょうかと…

 

 

この時期になると、というか、何か行事にかこつけて

「○○で嬉しくなくなるなんて、俺も大人になったなぁ」

「昔は○○になるとすごい楽しみだったのに…私ももう子供じゃないんだね」

というような人たちがいる。

 

私は、このような方々がどうにもこうにも解せないのだ。

 

確かに、子どものころはなんの行事も新鮮な気持ちで楽しめた。

クリスマスにはプレゼントを楽しみにしたし、

早く誕生日が来ないかと心待ちにした。

お正月に家族そろってお雑煮を食べることも、

夏休みに祖父母の家で線香花火をすることも…

 

年を重ねればそれらが当たり前になってしまうことは避けようがない。

しかしながら、それらを楽しみにできないのは、

本当に大人になったから、それだけなのだろうか。

 

一つ一つの出来事を楽しみにできなくなったのはきっと、

それ以外の楽しみを知ってしまったから、

子どもの頃より広い世界を手に入れたからだろう。

 

行事で盛り上がるパリピなるものも存在してはいるが、

行事がなくても、友人と集まって何かすることはできるし、

自分の欲しいものは自分で買うこともできる。

プレゼントやおこづかいを貰える日を心待ちにする必要はない。

(給料日が心待ちなのは大人も子どもも一緒だけどね!)

 

変化してしまった自分を見つめ、当時を思い出しノスタルジーに浸るのが好きな人には

特に何を言うこともないのだけれど、

もし本当に、またあの頃のように楽しみたいと思っているのならば

自発的にそうすればいいじゃないか。

 

もう受動的でいるだけの存在ではないのだから、

自らの思いを変えてみたり、何かを企画する必要性がある。

 

年はどうやったって重ねられてしまうし、体もどんどん大人になって老いていくけど

精神だけは、どうにだってすることはできると思う。

 

私はいつまでも子どもでいたい。

子どものまま、大人になりたいと思っている。

 

理由は色々あるけれど、一番は、

東京に出て、社会を広げて、色々な大人…いろんな人に会ってきて、

子どものように何事も楽しんでいる人がとても輝いていると思ったから。

 

一緒にいるだけで楽しいのに、色々学ばせられて、

やっぱり子どもだけど大人なんだと感じる、そんな人に憧れる。

 

子どもでいられる人は限られている存在だけど

思いさえ変わらなければ、どんな立場の人もそういられる気がする。

 

いい年こいてしっかりしない、ダメな大人になれということではなく、

自分の今あるスキルだとか力をうまく利用して

子どものように人生を楽しめたらいいなと、私はそう思うのです。

 

思えば子供の頃って、狭い環境で、少ない道具を使って工夫して遊んでた。

自分が楽しくなるために頑張ってたんだよね、気づかない間に。

 

大人になって、「大人になっちまった」と思ってた頃にやっと気づいた。

 

楽しくなるにはやっぱり、自発的じゃなきゃいけない。

 

保守的になった時、ただ受動的に生きるようになったとき

人は大人になってしまうんじゃないでしょうか。

 

いつまでも自発的に、何事も楽しめるような人間になれるよう、

今年も色々企画していければいいなぁと、自分に言い聞かせて、

このブログを閉じようと思います。

 

同時に自分のダメな子ども精神を少しずつ直していければと…

 

 

色々と、今年に向けての目標はございますがまず一つ目!

追って少しずつ書いていければよいです。

 

 

守ると壊すは紙一重

 

わたしの人の見方の問題から書き記していく。

 

私は、内と外の扱いにかなりの落差がある人間である。

外に対しては敵意丸出しに、人を人として見ていないといっても

過言ではないぐらいの態度を示してしまう。

さすがにこの年になってそれはマズいので、

そろそろ直さなければとは思っているのだが、

田舎者の性なのか(田舎のせいにしてはいけないけれど)

なかなか矯正できないものの見方のひとつである。

 

対して、内に対する見方だが、

一度テリトリーにさえ入ってしまえば、

掌を返したように厚い待遇で人をもてなそうとする。

わかりやすく言えばスネ夫タイプなんだろうか…

仲良くなった人にはいい思いをしてほしい、という一心で

ない頭を使って必死に対応している。

 

外は穢れ、内は神聖という考え方が、こびりついてしまっているのだ。

 

ふつうではあまりない感覚かもしれないが、

仲のいい友人に対して、かなり神聖視している面があり、

自分でもびっくりすることがある。

 

例えば、女性同士の生々しい下ネタトーク。

男性陣の下ネタが生々しくない、というわけではないのだが、

女子会などでは、詳しいところまで赤裸々に話されることがしばしばある。

わたしは、神聖視している人たちが、

そのような穢れの話をするのが耐えられないのだ。

 

好きという気持ちが高じて神聖化してしまう。

自分の中の理想像や勝手なイメージで、その人が作り上げられていく。

それらが裏切られてしまったとき、

予想外の一面を覗いてしまったとき、

禁忌的な感情を抱いてしまい、自己嫌悪に陥ってしまうこともあるのだ。

 

いわゆる声豚の方々が、「○○たそ~は処女!!!」と決めつけ、

解析班の方々のおかげ(せい?)でそれが暴かれたとき

怒りを通り越し悲しみとも無とも言えない謎の感情がこみ上げてくる…

そんな思いに通ずるところがあるかもしれない。

 

 

私の中だけでなく、私以外の中にあるイメージをも壊されるかもしれない、

そんな一面を覗いたとき、覗かされたとき、

どうしようもない焦燥感に襲われた。

 

本当は、私以外みんなにとって当たり前の事実かもしれない。

でも、もしかしたら、その人がその人たる要素のひとつであるのに

みんなに明かしていない一面かもしれない。

 

誰に言うでもなく、一人心の奥にしまう。

そうしないと、すべてが壊れる気がしてしまう。

誰かが壊してしまう気がしてしまう。

 

私は私の勝手な理想のため、何もなかったことにする。

 

きっとこの身勝手な判断は、

神聖視したものを壊してしまえる、という優越感とも似た感情に

値するのかなぁ、なんてぼんやり考えながら、筆を走らせた次第です。

 

それを本当に壊してしまうメンヘラがいたりするから、怖いんだけれども。

踏みとどまるまでの思考回路は酷似しているかと思うと

また自分に嫌気がさしてしまいそう。

 

誰にでも、砂でできた綺麗なお城を壊してみたい、という欲望はあるものだと、

私は考えています。

やる、やらないは別として、知的好奇心として、

自分が一手下すことで起こり得る現象を見てみたいという感情は

湧き出るものだと考えるからです。

 

それまであったものの本質を変えてしまう。周りの何もかもも変えてしまう。

禁忌を侵すという行為の可能性は大変魅力的なものです。

とはいえ、自分の中にそんな恐ろしい感覚が潜んでいるのかと思うと、

もういてもたってもいられないのです。

 

先述のメンヘラは、壊してみたい、というより

自己利益のために壊す、というパターンが多いから、

禁忌に対して魅力を感じているかというとまた微妙なのですが。

 

壊したくないのに、壊せる、という感情も持ち合わせてしまう、

複雑な感情に悩まされた時の備忘録的なものとして残しておこうと思います。

 

 

割と、ファンタジー要素強めの散文でした。